渡辺恒雄氏の生い立ち

渡辺恒雄氏は、読売新聞グループの本社代表取締役主筆を務められています。

学業は飛び級するほどエリート

1926年(大正15年)東京都杉並区に生まれ、開成中学校から飛び級で東京高等学校、東京帝国大学というエリートコースを歩みます。太平洋戦争に従軍した後は日本共産党に入党しますが、2年で離党(除名処分)。東京大学大学院を経て1950年に読売新聞社に入社します。

入社後は議員の人脈を築き、プロ野球のオーナーへ

政治部記者として活躍し、大野伴睦氏、中曽根康弘氏といった自由民主党の有力議員と人脈を築いていきます。政治部長、論説委員長、副社長と出世街道を歩み、1996年にプロ野球・読売ジャイアンツのオーナーに就任します。

元々は野球に詳しくなかった渡辺氏ですが、球界全体に強い影響力を持ち、「独裁者」とまで呼ばれる絶対的な存在として君臨します。

2004年にはオリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズの合併に端を発する球界再編問題が持ち上がり、渡辺氏は2リーグ制のプロ野球を1リーグに統合する構想を推し進めましたが、選手やファンの反発を招きます。新球団・楽天イーグルスの参入もあり、リーグ統合は立ち消えとなりました。

同年に発覚したドラフト裏金問題の責任を取って球団オーナーを辞任しますが、その後も球団会長、球団最高顧問を歴任しました。

政治記者時代に執筆した「派閥―保守党の解剖」をはじめ、多数の著作があります。

代表を務める読売新聞社

読売新聞社は1870年に横浜で設立された印刷会社を母体とします。1874年に読売新聞を創刊し、1917年には現在の社名に改められます。

1923年の関東大震災によって社屋が被災し経営危機に陥りますが、正力松太郎氏に買収され危機を脱します。

1934年に職業野球球団の「大日本東京野球倶楽部」を設立。後のプロ野球、読売ジャイアンツです。新聞の広告塔として、部数拡大に大きく貢献しました。

終戦後に本格的な全国展開を開始し、毎日新聞、朝日新聞と肩を並べる三大全国紙として発展していきます。1977年には朝刊の発行部数が日本一となり、翌78年には世界最大の発行部数を持つ新聞としてギネスブックにも掲載されました。

プロ野球以外にもサッカーチームのスポンサーへ

プロ野球のほか、サッカーチーム読売ヴェルディ(現・東京ヴェルディ1969)のメインスポンサーとしてJリーグの成立にも大きく貢献しています。

読売新聞は社会面に力を入れており、ジャーナリストとしても著名な本田靖春、黒田清といったエース記者が在籍していました。とりわけ読売新聞大阪社会部は黒田氏のもと「黒田軍団」という異名で呼ばれ、さまざまな社会問題を提起しました。

他紙にはない医療情報部

また、他紙には存在しない「医療情報部」という医療情報専門の部署を持っていることも読売新聞の特徴です。電子版サイト「読売オンライン」には、医療情報や健康相談を扱うページ「ヨミドクター」があります。

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