2019年12月、自動車・二輪車メーカーの本田技研工業(以下、ホンダ)が、二輪車の世界生産累計台数が4億台を超えたと発表し、話題を呼びました。

1949年にリリースされた最初の量産型二輪車「ドリームD」からホンダのオートバイの歴史は始まり、1997年に1億台を突破。その後、シェアの拡大スピードは加速し、2008年に2億台、2014年に3億台に到達。そして2019年、わずか5年で1億台を生産するなど、オートバイ市場におけるホンダの勢いはとどまることを知りません。2020年にはバイクレンタルサービス「HondaGO BIKE RENTAL」を立ち上げるなど、前例・常識に囚われない新たなチャレンジも続けています。

そんなホンダを立ち上げたのが、本田宗一郎。リクナビNEXT Tech総研やメイテックなどが実施したアンケートで、本物のエンジニア・憧れのエンジニアとして圧倒的1位に輝くなど、今なお技術屋として尊敬の念を集める、稀代の経営者にして技術者です。著書に『私の手が語る』(講談社文庫)など。1991年、死去。享年84歳。

修理工としてエンジニアの礎を築く

本田氏は、1906年に静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)の鍛冶屋の長男として生まれました。小さい頃から機械(中でも発動機)が好きで、近所の精米所などによく父と一緒に見に行ったそうです。また、村を走っていた自動車に心を奪われ、当時から自動車に強い関心を寄せていたといわれています。

自動車修理工への募集からスタート

その後、家にあった雑誌を見ていた時、自動車修理工の募集広告を見つけ、本田氏はこれに応募。15歳で東京のアート商会へ入社し、誰よりも必死に働きました。手先が器用な上、機械音で故障箇所を特定できるほど耳も良かったとあり、その頭角をめきめきと現していき、主人の榊原郁三氏にも一目置かれる存在となりました。

本田氏も自伝などで、最も尊敬する人として同商会の主人・榊原郁三氏を挙げており、エンジニアとしての技術はもちろん、顧客対応や仕事に対する姿勢など、ビジネスパーソンとしての基本を教わったといいます。

モータースポーツへ情熱

なお、ホンダはF1で有名ですが、本田氏は当時からレーシングカーのメカニックとして活動。アース商会の在籍時にライディングメカニックとして同乗した第5回日本自動車競争大会で優勝するなど、早くも一線級の実績を挙げていました。その後、本田氏は最期までモータースポーツへの情熱を持ち続けました。

22歳で独立、アート商会浜松支店を創業

20歳の時、徴兵検査では色盲と誤診され、徴兵を免れた本田氏は、その後も修理工として働き続け、21歳で静岡へ帰郷します。そして1928年、アート商会の支店(アート商会浜松支店)を創業します。榊原氏は社員の独立に対して極めて厳しい姿勢を貫いてきた人物でしたが、ただ一人、本田氏の独立だけが許可されました。榊原氏の本田氏の技術、そして仕事の姿勢に対する信頼が窺えるエピソードです。

浜松のエジソンと呼ばれる

この頃から、本田氏はその創造性を発揮し、「浜松のエジソン」とまで呼ばれるようになります。放水ポンプつきの消防車、ダンプトラック、バスの改造など、修理以外のさまざまな仕事も成し遂げ、多くの注目を集めました。

初のレーシングカー「ハママツ号」

モータースポーツへの情熱も、衰えるどころか、むしろ増していた。しかし、自ら製造したレーシングカー「ハママツ号」で参戦した1936年の多摩川スピードウェイ・オープニングレースで事故に巻き込まれ、ドライバーだった弟の弁二郎さんが脊椎骨折の大怪我を負ってしまいます。その後、一度だけレースに出場するも、父親の説教を受けて断念。1937年から始まった日中戦争の影響もあり、モータースポーツから離れることになります。

修理から製造へシフトするも、苦しい船出に

1936年、本田氏は自動車の重要部品であるピストンリングの製造を始めたいと、出資者たちに相談。しかし「修理で儲かっている。わざわざリスクを犯すべきではない」と反対意見が相次ぎ、交渉は難航しました。

諦めない精神力

しかし、本田氏は諦めませんでした。知人らの協力を取りつけて、アート商会とは別に東海精機重工業株式会社を設立。昼はアート商会で修理工として、夜は東海精機重工業の社員としてピストンリングの開発・製造に携わっていきました。

難航したピストンリングの開発

ところが、ピストンリングの開発は順調ではありませんでした。知識・技術の不足を痛感した本田氏は、浜松高等工業へ入り、冶金の勉強に打ち込み、2年後の1939年試作部品の製造に成功。これを機に本田はアート商会を離れ、東海精機重工業の仕事に集中するようになります。

しかし、開発された部品は実用に耐えませんでした。この試作品をトヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)に持ち込み、契約を獲得するも、製品検査で合格ラインに達したのは、50本中たった3本。後に世界のトヨタへ上り詰める同社の目は極めて厳しく、本田氏らは改めて技術や知識を学び直し、2年もの時間をかけてようやく大量受注へとこぎつけます。

大戦で転換、オートバイの誕生

しかし、その後、第二次世界大戦が勃発。東海精機重工業も男性社員を徴兵で失い、一般女性や女子学生たちが、誰でもピストンリングを製造できる平準化したビジネスモデルの構築を迫られるなど、大きな変化を余儀なくされました。

ところが、戦火は激しくなっていき、東海精機重工業の工場も空襲などで破壊され、苦境は続きました。終戦後も経営状況は厳しいままでした。

原動機付き自転車の開発

そんな中で訪れた1946年、本田氏は本田技術研究所(現在のホンダ)を設立。陸軍の無線用エンジンを自転車に取り付けた二輪車を開発。同研究所はこの「原動機付き自転車」の開発・製造を中心に事業を展開していきます。これがオートバイのはじまりでした。

ちなみに、オートバイ誕生のきっかけは、奥さんが自転車で買い物に行く大変そうな様子を見て、なんとかできないかと思ったことだそうです。そこで「エンジンがついていれば、いいんじゃないか?」と思い、試作したのがオートバイでした。

初代オートバイは大人気に!

この初代オートバイは、すぐに大反響を呼び、製造が追いつかなくなりました。もともと陸軍の無線用エンジンを使っていましたが、これも在庫がなくなります。

すると本田氏は、なんとこのエンジン(A型エンジン)を自作してしまいました。ちなみに、これが同社初の特許製品となりました。

カブの誕生

事業が波に乗った同社は1952年、オートバイの全国展開のため、本社を東京へ移転。このとき、同社の代名詞である「カブ」が誕生します。これが爆発的なヒットとなり、競合企業も次々と登場してきました。

なお、この時代に本田氏を営業面で支えたのが、有名な藤沢武夫氏です。1949年に常務取締役としてホンダに参画した藤沢氏は、「技術の本田・販売の藤沢」と称されるほど、ホンダの成長にとって欠かせない人材でした。

世界中で愛される名機「スーパーカブ」の誕生

その後、ホンダは順調に成長。1954年にジャスダックへ上場、1955年には二輪車生産台数が日本一となり、1957年には東証一部へ鞍替えします。

世界的な大ヒットを記録したのは?もちろん

そんな中、1958年に発売したのが「スーパーカブC100」。初代スーパーカブです。機能性は抜群、耐久力にも優れ、なにより一般市民でも手が届く安さもあり、世界的な大ヒットを記録。発売後1年で月産30,000台という驚異的な数字を叩き出しました(当時は年間生産台数と勘違いされていたそうです)

発売から半世紀以上たった今なお、世界各国で大人気。途上国のテレビ中継映像などが放送されると、大勢の人がスーパーカブで道路を走っている様子が、よく目に入るほどです。

 「辞めるときは一緒だ」 相棒・藤沢氏とともに引退

その後も、本田氏の技術力・創造性を武器に独自の市場を切り開き続けたホンダの躍進は止まりませんでした。今では世界に名だたる大企業として、日本を代表する一社となっています。

しかし、本田氏のカリスマ性ゆえに、後進が育っていないというのが、長らく同社の課題として立ちはだかっていました。本田氏がいなくなった後、この会社は果たして大丈夫なのかと、社内外で包み隠さず噂されていました。

その不安を誰よりも早く察したのが、長らく相棒として苦楽をともにしてきた藤沢氏でした。彼は「自分は辞める」と本田氏に告白。すると本田氏も「辞める時は一緒だ」と答え、二人は同じタイミングで退任しました。1973年のことでした。

その後、ホンダは何度か苦境に見舞われながらも、日本はもちろん、F1での知名度や技術力などを活かした欧州市場での展開など、プレゼンスを発揮しています。

本田氏のエンジニアとしての情熱は今も同社に強く受け継がれ、自由な発想で思う存分、己の技術を活かせる最高の開発現場として、多くのエンジニアの理想となっています。

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