奥田碩〜一度は左遷も腐らずトヨタ社長に上り詰めた稀代の経営者〜

名実ともに世界最大の自動車メーカーであるトヨタ自動車。2020年、世界中の企業が新型コロナウイルスの感染拡大で苦しい事業運営・経営を強いられている中、同年7月に公表した21年3月期の連結決算予想では、前年比わずか19.8%減の売上24兆円という強気の発表。営業利益こそ、2012年3月期以来に1兆円を割りましたが、それでも一大企業の底力を見せました。

そんなトヨタ自動車で、珍しく創業家以外で社長に就任したのが、奥田碩(おくだ・ひろし)氏です。入社から実に40年後の1995年、前社長(豊田達郎氏)の経営路線を引き継いで、第2創業期の経営を推進。前例や過去の威光に囚われることなく、目まぐるしく変わる市場動向への柔軟な対応を第一に、事業を拡大。同社を世界トップの自動車メーカーへ引き上げました。

トヨタ自動車社長、同社会長、日本経済団体連合会会長、内閣特別顧問などの要職を歴任。2008年には、旭日大綬章を受賞しました。

著書に『人間を幸福にする経済―豊かさの革命』(PHP新書)、『「地球企業トヨタ」は中国で何を目指すのか―奥田碩のトヨタイズム』(角川学芸出版)など。

裕福な家庭に生まれるも、空襲で一転

奥田氏は、1932年に三重県の津市で生まれます。祖父・奥田喜一郎氏が三重県で証券会社・奥田証券を創業して成功しており、後を継いだ父の時代も経営は順風満帆。そのため家庭は裕福でした。ちなみに、元J.フロントリテイリング会長の奥田務氏は、奥田碩氏の弟です。

そんな恵まれた家庭に生まれた奥田氏ですが、第二次世界大戦が勃発すると状況は一変。実家は空襲で全焼し、全財産を喪失。奥田証券も倒産し、奥田氏は津市から松山市への疎開を余儀なくされます。

高校も三重県立津高等学校から松阪北高等学校へ転校。しかし高校には行かず、独学で大学受験の勉強に取り組み、一橋大学商学部へ進学しました。

なお、競馬などギャンブル好きとしても知られる奥田氏ですが、その性格は祖父・喜一郎氏の影響といわれています。また一大証券会社を成した証券マンの血が流れているためか、その株価予想はよく当たると評判でした。

トヨタへ入社、歯に衣着せぬ経理として上司に詰め寄ることも

経理としてトヨタへ入社

一橋大学を卒業した奥田氏は、トヨタ自動車販売株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)に入社。経理からビジネスパーソンのキャリアをスタートします。当時の経理部は、社内の精鋭が集う部署で、奥田氏も将来を期待されていました。

しかし、入社から3年後、総勘定元帳の管理を任されるようになると、会社が行っている取引の具体的な内容、経費の内訳、幹部の交際費などをすべて知る立場となり、少しでも不審な点や分かりにくい点があると、本人へ詰め寄っていたといいます。相手が上司でも役員でも問答無用で、その姿勢ゆえ、社内では生意気な社員という悪評が立ち始めました(日経新聞より)。

ちなみに、このときに社内の資金や人の流れを俯瞰できた経験が、その後の経営では大いに役立ったといいます。

トヨタ社内での立場は悪化

しかし、奥田氏が経理として反骨心を露わにする度、社内での立場は悪化。また、もともとギャンブル好きなど道楽なビジネスパーソンだったことも、堅い社員が多かった同社で浮く原因となっていました。

そして1972年、経理部付けでフィリピンの現地法人へ異動。事実上の左遷でした。

ピンチをチャンスに マニラで本社役員の目に止まり出世街道へ

しかし、この異動を奥田氏は「駐在員が少ない分、日本の本社から幹部が来たときには全部自分たちで応対しないといけないので、幹部たちの目に留まるチャンスが多くあります」と考えていたそうです(日経新聞より)

当時、フィリピンのマニラにあった現地法人は、日本人エンジニアが2人しかいないような小さな事業所でしたが、そんな出世街道から切り離されたオフィスでの仕事に、しかし奥田氏は前向きに取り組みました。主な仕事は、エンジン開発。当時、他社のエンジンを使用すればいいと考えていた幹部に反発し、自社での製造を強行するなど、ここでも日本時代の押しの強さで仕事を進めていきました。

それ以外に、現地政府の息がかかった企業からの延滞金回収業務にも携わるなど、経営の立て直しにも尽力していました。

そんな中、奥田氏は、当時のトヨタ自動車工業の副社長、創業家一族の豊田章一郎氏と出会います。当時、章一郎氏は、娘婿で大蔵省(現・財務省)官僚の藤本進氏がアジア開発銀行に出向していた縁でマニラを定期的に訪れていました。

章一郎氏は、奥田氏の仕事振りを耳にすると、その手腕を高く評価。1979年に奥田氏を部長へ昇格させて、日本の本社へ戻しました。そのわずか3年後の1982年、奥田氏は取締役に就任。その後も、1985年の北米事業準備室副室長、1987年に常務取締役、1988年に専務取締役、1992年に取締役副社長と出世街道を邁進していきます。

28年ぶり、創業家以外で社長に就任

1995年、創業家以外としては28年ぶりとなる社長に就任。就任会見では、「海外展開のスピードアップ」「新規事業の開発・育成」「商品企画力・技術開発力の抜本的強化」「国内シェアの早期挽回」を重点課題として挙げ、改革に乗り出しました。奥田氏は当時、国内市場での劣勢に強い危機感を抱いていました(トヨタ自動車公式webサイトより)

ハイブリッドカー「プリウス」の誕生

象徴的な業績としては「プリウス」の誕生が挙げられます。ハイブリッドカーの先駆けとして登場し、その後、長らく新車販売台数でトップを獲得するなど、圧倒的な人気を誇ることになる大人気車種です。

奥田氏は、社長就任当初から、原油価格の下落や地球温暖化などに起因する世界の石油離れを予想し、即座にハイブリッドカーの開発を進言。社内からは反対もあったそうですが、「変わらないことがリスクである」と変化の必要性を強調。2ヵ月後には試作車が完成するスピード対応で、プロジェクトが進められました。

F1グランプリへの参戦が決定!

またプリウスの発売後には、F1グランプリへの参戦も決定しました。これも社内外から驚きをもって受け止められました。当時の豊田英二最高顧問・豊田章一郎名誉会長は、「そっちにのめりこんで本業が疎かになりかねない」と苦言を呈したが、この決断が結果的に欧州での知名度を高め、また同地で知られていた同業・ホンダの若者客をトヨタに引き寄せる起爆剤となりました(PRESIDENT Onlineより)

こうした挑戦を数多く手がけてきた奥田氏の経営は「攻めの経営」と呼ばれ、トヨタを世界的な企業に押し上げていく原動力となりました。

社長退任後も、経団連会長など幅広く活躍

1998年、奥田氏は日本経営者団体連盟の会長にも就任。経済団体連合会と統合後もそのまま8年にわたって団体のトップを務めました。

1999年、トヨタ自動車の後任社長に張富士夫氏を指名し、自身は会長職に就任。また併行して、東京証券取引所やUFJホールディングス、KDDIなど数々の企業にも顧問や役員として携わり、幅広く活躍しました。

2006年、トヨタ自動車の会長を退任。同社経営の最前線から退きます。しかし、その後も福田内閣特別顧問、国際協力銀行総裁など、業界を問わずに活躍を続けています。今なおその手腕は衰えることを知りません。

おすすめの記事